司馬遷(しばせん)の偉大さ

漢の武帝の時代(紀元前100年ごろ)の宮廷の記録係り(太史令)である父、司馬談の後を継いだ司馬遷は太史令となった八年目に皇帝の前に召しだされて李陵(りりょう)の敗戦について意見を求められた。

この李陵は将軍で、李広利(りこうり)将軍とともに匈奴に対して軍事行動を展開した。この李広利将軍は武帝の皇后の兄でそのことで将軍に任命された人物であった。李広利は三万の軍を率いたが、李陵はたった五千の兵を率いて囮部隊の役割を果した。案の定匈奴は八万騎でこの囮部隊に襲い掛かった。この戦いで李陵は善戦したが捕虜になった。しかし囮部隊としての任務は十二分に果たした。

司馬遷はこの李陵の敗戦について意見を求められた。

「このたびの戦い、ひとり李陵のみが孤軍奮闘せしことを、ご明察ねがいあげます。」これが司馬遷の結論であった。

これに対して李広利将軍を評価しない意見だとして怒った武帝は司馬遷を酷い刑罰(宮刑)にかけた。これは司馬遷にとっては死にもあたいする刑罰であった。

司馬遷はこの酷い境遇の中で中国の歴史を書いた。これが「史記」である。百三十編、五十二万六千五百文字の大著である。

それにしても時の権力者は酷いことをするものだ。

 

 

元号の起源について

小説十八史略」(陳舜臣)に以下のような記述がある:

「文帝の十六年(紀元前164年)に、瑞兆ともいうべき玉杯が発見された。その玉杯には『人王延寿』というめでたい文字が彫られていた。宮廷に出入りしていた、いかさま占い師の新恒平というものが、すこし前から
ー瑞兆の玉器が近くあらわれるでしょう。
と、予言していたのである。
はたして、めでたい玉杯があらわれたので、それを記念して、文帝は
ー来年から後元(こうげん)と改元しよう。
といったのである」

これが元号の第一号である。

しかもこの話には付録が付く。実はこの玉杯はいかさまであることが判明し、新恒平は処刑される。いまさらまた改元もできないのでこの元号を使い続けた、という。
「元号は誕生のときから、いささか胡散臭いものだったのである。」と著者は結んでいる。

青竜・朱雀・白虎・玄武

中国では黄色が最も貴い色とされていて中心にくる。これは黄河の色かな?

それを囲んで四つ色がある。方向にもあてられ、その守護神獣が決まっている。それが表題の青竜(せいりゅう)・朱雀(しゅじゃく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)である。

青は東で、季節は春、神は青竜

赤は南で、季節は夏、神は朱雀

白は西で、季節は秋、神は白虎

黒は北で、季節は冬、神は玄武

となる。

青春はこの「青は東で、季節は春、神は青竜」から来ている。

磋呼、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

秦の終わりころの陳勝(ちんしょう)の名文句である。

またかれは

「王候将相(おうこうしょうそう)、なんぞ種(しゅ)あらんや」

つまり権力の中枢にある人々は生まれながらにそれになる人種が決まっているわけではないぞ、という意味。

小説十八史略」(陳舜臣)から。

また同じ「陳勝呉広」の節に

「星々の火、以(もつ)て原を燎(や)く可(べ)し」という」という興味ある諺が載っていた。

 

馬子草(まごそ)温泉

阿蘇付近の馬子唄を調べていたら、面白い名前の温泉に出会った。

名前も面白いが温泉の質もいいらしい。

こんな説明があった:

飯田高原の中央にある馬子草(まごそ)温泉は、加温・加水をしていない源泉掛け流しの温泉です。黄色のにごり湯で、肌がしっとりするくらいやわらかなお湯は皮膚病、火傷、関節痛などに効果があり、飲用することで糖尿病や肝臓病、胃腸にも効くと言われています。泉質のよさはもちろん、くじゅう連山をパノラマで見ることができる露天風呂の景色が最大の魅力。広々した湯船からは、硫黄山のモクモクと立ち上がる白い煙や、青々した草が広がる高原が望めます。

菅原道真と屈原

この二人には共通点がおおい。歌人や詩人であったが当時の政治に深く関与し、二人とも政治的に対立する勢力の陰謀によって左遷・追放された。しかも亡くなった後に怨霊になった点も共通している。菅原道真はその怨霊を鎮めるために天満宮にまつられ、屈原が自殺した五月五日にはその死を悼んで人々は竹筒に米を入れて水に流した。

屈原は中国戦国時代(起源前300年ごろ)の人であり、菅原道真は十世紀の人であり、千年以上も離れているがひとは同じようなことを繰り返すものだ。

馬子唄の世界(9):鈴鹿馬子唄

歌詞

坂は照る照る 鈴鹿は曇る(ハイ ハイ) あいの土山 エー雨が降る (ハイ ハイ)
「坂」は坂下宿の意味。いまでは小さな集落らしい。「あい」の意味は沢山あるらしいが、坂下宿に対して鈴鹿の反対側の土山というのが自然のように思える。

歌詞の意味は:

坂下宿では晴れているが鈴鹿の反対側にある土山では雨が降っていて、中央の鈴鹿峠は曇っている。 高い山々が連なる山脈では分水嶺を挟んで天候が変わる。

歌詞は以下のように続く:

○馬がもの言うた 鈴鹿の坂で お参宮上﨟(おさん女郎)なら エー乗しょと言うた

○坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや エー小竹屋に

○手綱片手の 浮雲ぐらし 馬の鼻唄 エー通り雨

○与作思えば 照る日も曇る 関の小万の エー涙雨

○関の小万が 亀山通い 月に雪駄が エー二十五足

○関の小万の 米かす音は 一里聞こえて エー二里ひびく

○馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が エーとめたやら

○昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の エー声がする

○お伊勢七度 おたがわ八度 関の地蔵は エー月参り

「乗」という漢字の意味

小説十八史略」(陳舜臣)を読んでいたら「乗」という漢字の意味の解説があった。

それによると

四頭立ての馬車を「乗」という。戦車の場合はこれに三人の武装兵が乗り、後ろに七十二の歩兵を従える。

天子のことを「万乗の君(ばんじょうのきみ)」と称するは、四万頭の馬と七五万の軍勢を率いる王者の意味。

 

馬子唄の世界(8):箱根馬子唄

落語の「三人旅」にも出てくるが、東海道の難所の一つであった箱根山を徒歩で登り下りするのは大変だったらしく、馬に乗って行き来した。箱根の峠は、東の小田原宿までが四里八丁、西の三島宿まで三里二十八丁あり、いわゆる箱根八里(約32km)で、途中に箱根宿があった。

馬を曳いたのが馬子で、農閑期になると近隣の百姓も馬子になった。

箱根馬子唄:

箱根八里は(ハイハイ)馬でも越すが(ハイハイ)
越すに越されぬ大井川(ハイハイ)
めでためでたのこの盃は 鶴が酌して亀が飲む
関所通ればまた関所 せめて関所の茶屋迄も
お前百までわしゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで

馬子唄の世界(7):吉野の草刈唄

木曾地方も馬産が盛んだったので馬を唄った民謡がさぞ沢山あるだろうとおもったが暗に相異して殆んどない。見つけたがこの「吉野の草刈唄」である。

長野県木曽郡上松町吉野に伝わる作業歌で馬の飼料となる夏草を刈り採るときに歌った。

吉野の草刈唄:

草を刈るなら吉野の山で
どうぞまじりの嵐草(あらしぐさ)

草を刈るなら桔梗花残せ
桔梗は女の縁の花

花は蝶々か蝶々が花か
さてはちらちら迷わ

「どうぞ」は、馬小屋に堆肥用に敷く長くて硬い草のこと。「嵐草」は、山の上からまとめて転がす様子を歌ったもの。

なお木曾地方の馬産についてはここを見てほしい。