地震波の周期

2011年3月11日に起きた東北・関東大震災は筆舌に尽くしがたい被害を生んだが、地震そのものより地震に伴う津波による甚大な被害が特徴である。
地震による振動で家屋の崩壊を引き起こす振動は、建物の固有振動と共鳴する周期が1秒~2秒あたりのものである。だから到来した地震波にこの周期の成分を多く含んでいるものは家屋に地震そのもので大きな被害がでる。不思議なことに、今回の地震はこの建物に大きな被害を及ぼす1秒~2秒の長周期成分が少ない。1秒以下の成分が大きいことが特徴である。この特徴は前回の宮城沖地震も同じ傾向にある。だから、宮城県周辺は耐震の備えが進んでいることによって地震そのものの被害が少ないわけではない。

加速度データのパワースペクトル(気象庁資料より)。横軸は周期で単位は秒で、縦軸は周期成分の相対的な強度である。宮城県沖(2003年)のグラフのピークが1秒以下の周期のところにあることがわかる。

地震波に含まれる周期成分の特徴が何によって決まるのか考えてみよう。それは地震を引き起こす地殻変動の空間的なスケールの大きさだと思われる。地殻を伝播する弾性波は伝播速度が5~7km/secである。仮に周期1秒の成分を作ろうとしたら、従って5~7km程度の規模の地殻が一斉に活動(地殻変動)すればよい。宮城県沖の地震はこの規模より可成り小さな領域がボコボコと地殻変動した結果なのだと思われる。地殻変動の空間スケールは小さいが、大きな地震であるので変動のずれはおおきなはずである。今回の地震の活動域が日本の東北から関東の太平洋沿岸に沿って500km程度の広い範囲になるが、地殻変動の空間スケールはその100分の1程度かもしれない。

南部地方の馬

源頼朝の奥州支配に伴って牧場経営経験者が南部地方の支配者として投入された結果この地方の馬の生産は飛躍的に増大したと思われるが、実際の経営形態はどのようなものであったのだろうか。

この疑問に対して森嘉兵衛著「南部の馬」(馬の文化叢書第四巻)によれば、以下のようである。 産馬(特に軍用の馬)の経営に当たった南部氏(もともとは甲斐の南部出身)は糠部(ぬかのべ)郡(青森県東部の三戸郡・上北郡・下北郡と、岩手県 北部の二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町などを含む広大な地域であったとみられてる)を東西南北の四門(かど)に分け、さらにそれらを九つの部(戸)に細分し、一つの戸に一つの牧場を設け、牧士田を与え経営させた。 室町時代にはこの制度を衰微したそうだが、近世に入り南部藩はこの古牧の再興を図り、住谷(三戸)、相内(三戸)、木崎(五戸)、又重(五戸)、三崎(野田)、北野(野田)、蟻渡(野辺地)、大間(田名部)、奧戸(田名部)の九つの藩営牧場を経営した。ここに1500頭近く馬が飼育されていた。 これらの馬の飼育法は野馬飼と里飼の二つがあった。野馬飼は藩営牧場で放牧して育てた馬である。武士が馬役人を務めたが、村々に馬肝入、馬看名子、御野係百姓、木戸番などを命じ実際の世話をさせた。 民間で所有している馬を里馬といった。藩所有の山野へ入り牧草などを取ることを許したが、この馬たちも藩の管理下にあった。藩は春秋二季に領内の総馬検査を実施して、馬を上中下の三等級で判別し、密売等がないか厳しく管理した。 多くの馬を持っていた豪農家や馬喰は、零細農民に馬の世話を委託する「馬小作」という制度も作った。零細農民にとっては大変に不利な条件の小作であったようであるが、馬などの役畜を調達するために農民はこの不利益に甘んじた。「南部曲家」はこの里馬の役畜農業に即した構造の家屋である。しかし、零細農民までこのような家屋を持っていたとは考えにくい。