木曽地方の馬

木曽馬は小型ではあるが、粗食に耐え、忍耐強く従順であるといった性質を持っているので農耕馬として高く評価されてたが、どのようにしてこの木曽馬の産馬が隆盛になったのだろう。
木曽といえば「木曽義仲」だ。平家打倒の一勢力として名を馳せた彼の背景は当時木曽にあった在地勢力である。このころから木曽の馬は軍馬として活躍したと思われるが、どのようにして産馬が組織化されていたかは不明なようである。
近世に入るとかなりこの様子がわかってくる。生駒勘七箸「近世における木曽の毛附馬制度と木曽馬の生産」(馬の文花誌「近世:馬と日本史3」第四巻)によれば、慶長十三年(1608)に木曽代官山村良勝によって出された触れの中に「毛付の物成」とよばれる制度があったことがわかる。これは米租に替わって馬を貢租とする制度で、木曽三十ヶ村の内二十ヶ村に対して出されたもので、木曽の広範囲で馬産が盛んであったことを示すものである。
この木曽の代官であった山村氏は江戸時代になっても木曽福島に居館を構え木曽を支配した。また、元和元年(1615)に木曽が尾張藩領となってもそのまま尾張藩の木曽代官を続けた。南部藩から良馬30頭を木曽に入れるなどぼ初期投資をしているが、この山村氏は木曽の馬を独占的に支配した。
例えば、「毛付の物成」では、当才馬(今年生まれの牡馬)を自由に売買することを厳禁し、毎年七月上旬の半夏生の日に二歳馬を木曽福島の代官所へ集めて検査し、良馬200から300頭を選び、村へひき帰らせもう一年飼育させ、翌年その三歳駒を再検査し、そのなかから良馬20から30頭を貢租として召し上げた。残りの馬は、たてがみを切り、印札をわたして自由売買をゆるした。
この山村氏は馬市を主催して馬産の興隆に貢献したが、商業活動に対して冥加金をかけるなどしてこの面でも領民を収奪した。
明治9年の資料によれば木曽馬の飼育頭数は九千頭に達する。