司馬遷(しばせん)の偉大さ

これも「小説十八史略」(陳舜臣)で語られている話である:

漢の武帝の時代(紀元前100年ごろ)の宮廷の記録係り(太史令)である父、司馬談の後を継いだ司馬遷は太史令となった八年目に皇帝の前に召しだされて李陵(りりょう)の敗戦について意見を求められた。

この李陵は将軍で、李広利(りこうり)将軍とともに匈奴に対して軍事行動を展開した。この李広利将軍は武帝の皇后の兄でそのことで将軍に任命された人物であった。李広利は三万の軍を率いたが、李陵はたった五千の兵を率いて囮部隊の役割を果した。案の定匈奴は八万騎でこの囮部隊に襲い掛かった。この戦いで李陵は善戦したが捕虜になった。しかし囮部隊としての任務は十二分に果たした。

司馬遷はこの李陵の敗戦について意見を求められた。

「このたびの戦い、ひとり李陵のみが孤軍奮闘せしことを、ご明察ねがいあげます。」これが司馬遷の結論であった。

これに対して李広利将軍を評価しない意見だとして怒った武帝は司馬遷を酷い刑罰(宮刑)にかけた。これは司馬遷にとっては死にもあたいする刑罰であった。

司馬遷はこの酷い境遇の中で中国の歴史を書いた。これが「史記」である。百三十編、五十二万六千五百文字の大著である。

それにしても時の権力者は酷いことをするものだ。

 

 

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