太白山と太白星

仙台市に太白山という小さいが特徴的な山がある。円錐形をした山である。命名の由来は不明であるが金星が落ちてできた山ということで太白山となったという伝説があるという。太白星は金星のことである。古代中国の占星術では金星は宮廷での大臣(太白)のしるしとされ、方位では西、季節は秋のシンボルとされた。さらに軍事を支配する星とされた。軍の勝敗はこの太白星の動きで予言できるとされた。金星の「金」は古代中国の陰陽五行説では「金属」の「金」で「金属」のひやりとした冷たい感触が太陽の沈む西に対応されることはら「金」と西とが繋がっている。
こうしてみると太白山は西に位置する山にその名前の由来があるかもしれない。なるほどこの山は仙台市の西端に位置している。

ハトの首振りと非対称歩行

ハトは歩行するとき首を前後に振る。この原因は歩行による移動により目にはいってくる景色を一定時間静止して置くためらしい。実験的にもこれは確かめられている(「ハトはなぜ首を振って歩くか」(藤田祐樹)。ところでこの首振りは走行の位相と同期していて二足歩行の一歩の間に一回でしかも走行の位相と同期している。
例えば前著者によれば
「ハトの左の肢が空中にあるときにハトは首を伸ばし始めてさらに伸ばし右肢は地面を踏み出すと首を縮め始め右肢が空中にあるときは、さらに首を縮める動作をし右肢が着地するところでそれをやめる。」
という。
面白いのはハトの二足走行は対称になっているが、この走行に首振りまで含めると非対称になっていることである。
馬も走行の際に首を振るが、走行が対称な常歩や速歩ではこの首振りも含めて対称になっている。
非対称走行は馬では駈歩があるが、これには右手前、左手前のモードがある。
ハトの首振り歩行にもモードがあるはずである。

ケルトの地上絵

ナスカの地上絵は有名であるが、ケルトにも地上絵がある。
これはイギリス・アッフィントンにあるケルト人が描いたと考えられている地上絵である。上空から見ないと何が描いてあるか分からないほど大きなもので

ケルトの地上絵
ケルトの地上絵

画像のように大きな白馬である。何の目的で書いたかは不明である。

競歩とテネシー・ウォーカー

競歩で世界新記録がでた。
普通の人が走っても敵わないような速度で「歩く」。さかさま振り子モデルでは脚が地面から離れるはずであるという速度でも「歩く」わけである。「歩き」方にこつがあるのかもしれない。
馬の世界でも速い「常歩」をする馬がいる。テネシー・ウォーカーはその一種である。四拍子の速い常歩で10~15キロメートル毎時の速度を保って長い距離を走る(?)ことができる。この常歩の速度は170~250メートル毎分であり、普通の馬の速歩の速度の領域に属する。

一年のはじめ

一年のはじめは1月1日である。
この日を一年の何処に置くかは太陽暦であっても自由である。
調べてみるとこの問題は教皇グレゴリウス13世が招集でぃた「改暦委員会」(1570)まで遡る。一年の長さを太陽の回帰年に合わせる作業の過程で、春分の日をニカエア公会議当時に合わせることも提案された。ごの日は3月21日という日付にならなければならないとしたわけである。太陽が春分点にあるときが春分の日であるから、これで太陽の動きと暦の進行とが固定されたわけである。実際の暦の移行は1582年の10月4日(カエサル暦)の翌日が10月15日(グレゴリオ暦)となることでつじつまを合わせた。
現在では1月1日は太陽暦の進行に従って365(366)日後に再び出現するが、春分の日は3月21日であったり22日であったりと動く。

庚申と馬

日本古街道探訪」の中に「中馬街道」というのがある。これは三河と信州とを結んだ馬による塩輸送の道である。そのなかに街道に沿って庚申碑が驚くほど沢山あるという指摘があり、これが馬の護り神になっていたことが分かる。
馬の護り神と言えば馬頭観音がよく知られいるが、守庚申に登場する「猿」も馬の護り神である。街道に沿って庚申塚や庚申碑が多いこともこの馬と猿とによるのかもしれない。
守庚申は庚申の日には人々が眠っている間に体の中にいる三尸虫(さんしちゅう)が天に昇りその人の罪過を天の主に告げることを防ぐために寝ないでおしゃべりをしたりする習俗であるが、この三尸虫と「申」とが結合して「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿ができた。庚申碑にはこの三猿を表現したものも多い。
一方、猿は山の神(山王)の使者である。山王は馬頭観音より古い歴史を持つ馬の神である。それで山王の使者である猿ー>三猿ー>庚申碑の図式ができあがった。これから庚申碑を馬の護り神に祈念する碑に転用することになったと思われる。

左前の胡服

古墳時代後期の古墳から沢山の馬具や乗馬の壁画が見つかっているが、当時の人たちがどうのような姿で乗馬をしたのかもわかる壁画がある。その一つが福岡県鞍手郡若宮にある竹原古墳の壁画である。馬を引く馬丁の姿が馬と共に描かれている。

竹原古墳壁画の馬と馬丁
竹原古墳壁画の馬と馬丁

筒袖の搾袖、短衣、ズボン姿の馬丁です。このスタイルは中国北方胡族のものである。しかもこの壁がでは判然としないが、左前(左えり)の上着である。左前(左えり)とは男性洋服の衿の合わせかたで左衿が前にくる。この馬丁は馬に向いているから、右腕で馬の手綱を持っていることになる。この動作では左前の方が右前より合せがはだけない。
面白いことにこの壁画でも馬の左側で馬丁は馬を引いている。

アインシュペンナー

アインシュペンナー(Einspaenner)は「一頭立ての馬車」の意味である。その馬車の御者がポイップクリーム入りの熱々のコーヒーをグラスに入れ、片手にそのグラスを、もう一方のは手綱をつかんで飲んだということに由来するコーヒーの飲み方である。

アインシュペンナー
アインシュペンナー

駈歩は逃げるのに最適

馬の速歩と駈歩の間の遷移についてはさまざまな説明がされているが、ここでは駈歩が非対称歩様だということに着目してみたい。
馬のような草食動物は肉食動物から逃れるために運動機能を発達させたと考えられる。逃れるためには走る速度もあるが、「旋回しやすさ」も必要になる。速度が小さいと旋回しやすいが、速度が大きくても旋回しやすい歩様がとれるとさらに生存に有利になる。非対称歩様は「旋回のしやすさ」では速歩などの対称歩様より勝っているのではないかと思う。

新田義貞の馬

1952年(昭和28年)に鎌倉市材木座から鎌倉時代末期に属していると考えられる多数の馬の骨が発掘された。
発掘された場所は鎌倉市の西南部、乱橋材木座であり、海岸より鶴岡八幡宮の鳥居に向かう参道のほぼ中央に位置している。この馬たちは同時に出土した人骨から1333年(元弘3年)5月、新田義貞の鎌倉攻めに使った軍馬であろうと考えられている。勿論北条高時側の馬も入っていろだろうが、この馬たちは当時の関東で飼育された馬たちである。詳しい骨の計測から、この馬たちの体高が推定されている。
結果は
体高は109から140cmの範囲にあり、平均は129cm(林田重幸“中世日本の馬について”(馬の文化誌・中世“馬と日本史2、496ページ)であった。130cm前後にピークがあり、今の馬からみると小型の馬が多い。軍馬は大きな馬体のものを選択したであろうことを考えると当時の馬は概して小型の馬が多かったことが分かる。
古墳時代後期に古墳から馬具や埴輪が発掘されていて、それ以前から比較するとこの時代を境に日本に馬が多くなったことがわかる。日本にそれ以前にいた馬たちではなく、大陸経由で日本にもたらされた馬たちであると考えられている。これが日本における「在来馬」の起源である。新田義貞の馬たちもこの流れにあるものだろう。
先史時代に日本に馬はいだはずで、弥生時代の馬の化石が発掘されているが、この馬の系統は古墳時代には絶滅してしまったのだろう。
明治に入り軍馬の大型化が求められて、日本の在来馬は激減してしまう。